REPRESENTATIVE PROFILE
略歴
1987年 高校在学中に1年休学してアメリカ合衆国テキサス州へ留学
1996年 法政大学 文学部 英文科 卒業
(在学中の夏休みは叔父が経営するインドネシアの工場でアルバイト)
1996年 卒業後、このインドネシア工場に惹かれて就職するも、会社は倒産
1997年 長野県諏訪市 ㈱クリンビー入社(工業用洗浄機との出会い)
2002年 長野県千曲市 ㈱千代田製作所入社
(医療機械部門のアメリカ駐在員として入社)
ところが、事情が変わって同社の工業用洗浄機部門の配属となる
2003年 同社上海駐在員事務所の首席代表として駐在(上海長期滞在の始まり)
2005年 同社上海駐在員事務所が閉鎖、そして退職
2005年 6月 上海六藏貿易有限公司開業
2022年 6月 武蔵テクノサポート株式会社開業
振り返ってみれば、大学を卒業当時、バブル崩壊後の就職氷河期の就職活動の時代、自分は何をやりたいのか?アメリカ留学経験と英文科卒という経歴を身にはつけたものの、では何をするか?自分はどの方向に向かっていくべきか?つきたい職も分からないまま、親戚が経営する地元長野県上田市に本社がある製造業(大学時代の夏休みは、進出先インドネシア支社で毎年アルバイトをさせてもらった会社)まだ大学を出たてのこんな自分でも、自分を必要として迎えてくれる環境があったことと、大学4年間のアルバイト期間に見たインドネシア、日本と比べると何もかも不揃いで、アメリカ留学で得た物とはまた違った何か、表現が難しいが不思議と引きつけられる物を感じた私は、卒業後の進路は、ここインドネシアというフィールドを選んだ。綺麗事を言うなら、この会社とインドネシア工場へ夢と希望をかけた。しかし、この後襲う悲劇、自身への反省点は「就職活動戦線から逃げたこと」である。
入社して1年目の12月、海外への過剰投資等が影響して、同社は倒産する。将来性の見込めるインドネシア支社は売却され、このまま会社に残る道を上司の方から強くお誘い頂いたのだが、私は入社1年という身でこの時、経営には一切関わっていないものの、本社創業家の親戚である故、会社に残る道を辞退した。
この後、転職する洗浄機メーカーで、インドネシアを出張で何回か訪れるのだが、若き日の苦い思い出いっぱいのインドネシア、しかし日本から出て、アジア地域という広い視野と見識を身につけてくれた貴重なスタートラインでもあった。
卒業して就職した地元上田の会社(親戚が経営する製造業)は、私にとっては入社後1年足らずで会社は消えて無くなってしまった。そもそも、自分は「何をやりたかったのか?」「海外に精通する仕事がいいな」とは考えながらも、今度は中途採用という立場(極めて不利な環境)の就職活動が始まった。
外国語志望から文系の学位を頂いたものの、「ものづくりは好きだ」「短期間とは言え、インドネシアで経験した生産ラインの立ち上げ」「本社工場では、生産現場研修、生産設備の保守メンテナンス実習も受けた」自分が好きであり、自分がやれること、そこを応募する企業にアピールしよう、確かそんなふうに考えたと思う。このままプー太郎になるわけにはいかない、前職でやり残したもの、その次のステージを考えながら、自分を採用してくれる先を探したのだった。
長野県諏訪市に、工業用洗浄機の新興メーカーがあることを知った。倒産してしまった前職は部品の加工外注をしていて、日本の大手電機メーカーへ加工部品の納入をしていたのだったが、この洗浄機メーカーも同じ電機メーカーに納入実績がある、何か関連づけたお仕事ができるか?そんな期待感を持ちながら、洗浄機や洗浄剤の知識はゼロに等しい、学卒新人同様の状態で洗浄機メーカーの株式会社クリンビーに入社した。
工業用洗浄の分野において1995年は、フロン・エタンが全廃された歴史的な年と言われ、私はその2年後の97年入社なので、この業界に入ったのが97年ということになる。洗浄業界全体がフロン・エタンに替わる洗浄システムの開発競争、炭化水素系システムも各社が開発を競った黎明期のような時代だった。この諏訪市本社の洗浄機メーカー「クリンビー社」は、今では売り上げが業界ナンバーワンのトップ企業と言われるメーカーも、私が入社した97年頃は、30名にも満たないベンチャー企業だった。
少数精鋭部隊に、いきなり放り込まれたようなスタートだった。皆が皆、自分の役割を2役も3役もこなすのが当たり前というのが大半の小規模企業と思う。現在自身が経営する武蔵テクノサポート及び上海六藏貿易も少人数のベンチャー魂が売りの会社なのだが、この頃この環境下で何役も経験させて頂けた事が、今の私があるのだと思う。当時お世話になった会社と皆様に心からお礼を申し上げたい。
1995年フロン・エタン全廃直後の97年に入社、この後、とある事がきっかけで退職し、2002年~2005年は別の会社へ転職することにはなるが、現在は代理店という立場で、クリンビー社とは協業させて頂いております。この業界創世記から今日まで、洗浄の分野でずっとお仕事をさせて頂いている私であります。
中国関連の仕事は2000年頃、中国出張のテーマ(広東省深圳、上海、遼寧省大連)と、この頃中国出張案件が一気に増えた。東南アジアから中国へ、洗浄機メーカーの営業マンという役割をこなしながら、「海外案件を多く経験すると現場ワークが自然と身につくものだ」と、自身の過去を振り返り改めて思う。国内にいたら他の誰かを頼る(専門以外のことは普通やらない)しかし海外の場合、頼れる人が近くにいなければ自分で何とかするしかない。もともとは一営業マンの私でしたが、いつの間にかオールラウンドプレーヤー(機械の修理も出来たり、そして何より機械が詳しくなる)部品図面が間に合わなければ、自分で描いたポンチ絵を加工業者に持ち込んで、機械の故障を復旧するとか、時にはネジ切り機を操って洗浄機の配管修理も経験した、今となってみれば貴重な経験と財産であり、お陰で洗浄機に関する知識を現場で身につけることができたのだと思う。海外では時々他社メーカー製の洗浄機故障を相談される事もあり、いろんな洗浄機を見た経験から、大概のメーカーの洗浄機の構造は把握できるようになり(全てが対応出来るわけではないですが)、構造を素早く理解することから、問題解析や原因分析は大概出来るようになった。このスキルは身体で会得した以外何物でもないと改めて思う。
※ 写真をクリックすると、拡大写真を見ることができます。
この頃、この業界の「脱フロン等・代替洗浄テーマの洗浄プロセス」は、炭化水素系が本流となってきていた。しかし、洗浄対象部品の事情で洗浄仕様(洗浄剤・洗浄機)仕様は、必ずしも同じにならず、提案力が経験と共に自然と身についたのだと思う。
「環境にやさしい洗浄」洗浄業界は脱フロンから、脱塩素系へと環境対策が益々厳しくなっていく中、新興メーカーだったクリンビー社も、業界内では技術力と営業力と常に注目を集めるメーカーに成長しており、この私も当時20代で係長を任せて頂いていた。営業成績も創業者の社長には及ばなかったものの、営業マンの中では、トップをとれるまでになった。しかし、とある事(この場では割愛させて頂きますが)をきっかけに、私の心は折れた。正直、やりきった感はあったので、辞めさせて頂く決意を固めた。
きっかけは、信濃毎日新聞の求人募集「医療用と産業用機械メーカーのアメリカ駐在員の募集」だった。実家の長野県上田市の隣、千曲市の中堅機械製造メーカー、株式会社千代田製作所(現、サクラ精機株式会社)だ。履歴書を送り、二次面接は役員面接(各事業部の役員事業部長の方々)まで無事通過、内定を頂いた。
ところが、後日人事部の方より、「医療器部門のアメリカ駐在ではなく、工業用洗浄機部門へ入って頂けませんか?」(実はもっと積極的な内容だったことを記憶しているが、ご迷惑がかかる可能性があり、詳細は割愛する)
この会社を選んだきっかけは、アメリカ駐在という気持ちのリセットと、前職の工業用洗浄機の経験を活かして今度は医療業界用洗浄機等の仕事ができないか、そう考えた。同社の別事業部で工業用洗浄機を作っていることは当然承知はしており、前職のライバル会社だ(いつか身を助けるか?とは思ったが)、まさか早速の展開には驚いた。「辞めていきなりライバル他社はまずいな」内定を頂いておきながら本当に迷いに迷った。「少しお時間を頂きたい」と言ってお返事に3ヶ月もお待たせするという、恐らく前代未聞の無礼な事をしてしまった。アメリカ行きは一端無しにはなったが、やはり自分を必要として迎えてくださる所にお世話になる事が良いのか、千代田製作所への入社を決めた。
こうして、転職を決意した私は、千代田製作所の工業用洗浄機部門への配属となった。この会社は、医療用機器と機械のメーカーとして大正6年創業の歴史ある会社で従業員も何百人もいる会社だ。今度は大きな組織の中にある事業部、その中の工業用洗浄機部門、洗浄機の営業という仕事は同じである。
脱フロン、脱塩素系の環境対応洗浄は、大きく3つに分けることができる。①フッ素系洗浄剤 ②水系・準水系洗浄剤 ③炭化水素系洗浄剤 この会社は、この何れのタイプの洗浄剤にも対応出来る洗浄機をラインナップしており、また会社の規模も前よりも大きな洗浄機メーカーへ途中入社となった。
2002年頃は、日系企業が中国への進出ラッシュと言われる時期でもある。前の会社でも中国出張(納品作業)で中国を訪問し、現地で営業活動をするという取り組みを自分なりのアイデアで始めてはいた。現地にある日系商社の力を借りて説明会を行ったり、今度の会社でも先ず同じような取り組みを始めてみた。この頃、世の中が変わり始めていたのは、以前は洗浄機の仕様やメーカー決定は日本サイドで行われていた作業が、洗浄機を使うユーザーさんが現地サイド主導で、仕様やメーカー決定を行うパターンに徐々に変わっていく、そんな転換期の頃だったように思う。しかし、今になって思い返してみると、2002年頃はこれから進出という、まさに進出ラッシュ期であり、購入決裁が本格的に現地化していくのは、ここから約3~4年後だったと思う。
中国進出ラッシュのこの頃は、納入先はこれから進出先の中国新工場という案件がとても多かった。そんな中国進出ラッシュに乗ってか?当時の千代田製作所でも会社のトップから、「中国に駐在員事務所を開設するよう」命が下る。当時の直属上司(課長)と一緒に、JETRO上海事務所やメインバンクの上海事務所を訪問し、拠点開設のアドバイスを頂いて、上海事務所開設準備に取りかかった。(この時、まさか自分が駐在するとは思ってはいない)
※ 写真をクリックすると、拡大写真を見ることができます。
2003年4月付け、上海駐在員事務所開設とともに、上海駐在及び駐在員事務所所長(首席代表)の辞令を頂いた。アメリカ駐在を希望して入社した会社ではあったが、入社して1年後に中国駐在、当初描いたアメリカではないが、希望した海外勤務だ。
駐在員1名だから然りではあるが、「事務所長」中国語ではこのような事務所を「代表処」と言い、代表処の長を「首席代表」と言う、凄い肩書きを頂戴した。(身の引き締まる思いである)
ところが、上海駐在の幕開けは、当時中国からアジア圏にかけて蔓延したSARSの時期と重なる。中国各地に死者及び患者が大量に出て、特に首都北京と広東省は相当数の死者が出るという、未曾有の危機状態にあった。上海は比較的落ち着いていたものの、4月開業の事務所も外出禁止令が続いたことで、約半年全く動けないような状態だった。
営業活動と市場開拓が、やっと本格始動し始めた翌年2004年だったが、その年の12月、同駐在員事務所の閉鎖が決まった。
中国の巨大マーケットと今後の可能性、つかみ始めていた感触、存続を強く願い出たのだったが、事務所の存続とはならなかった。私の力不足という事なら後任とバトンタッチもあろうが、そういうことでもないようだ。中国への展開は、むしろこれからだというのに、私の中では消化不良のまま、会社の指示どおり事務所閉鎖の手続きに入った。
そして、事務所閉鎖作業に一定の目処が立った翌年2005年3月、短期間に結果を出せなかった重い責任と、中国でやり残した消化不良を抱えて、退職する道を選んだ。
※ 写真をクリックすると、拡大写真を見ることができます。
今度は雇われる側ではなく、自分が経営者という立場で市場で勝負してみたい、独立開業を考えた。私が千代田製作所を退職した時期と同じ頃、東京にて洗浄剤を中心とした洗浄専門メーカー「㈱武蔵テクノケミカル」が立ち上がった。まだスタートして間もない武蔵テクノケミカルに加わり、武蔵テクノケミカルの一員として、上海拠点の販売会社を立ち上げる事になった。会社名を上海武蔵貿易としたかったのだが、上海にて既に他の会社が「武蔵」の活字を同業種が登録している場合は、同じ漢字が使えないルールがある事が分かった。ムサシと読める良い当て字が見つからない(困った)、しかし、ネーミングに時間や手間をかけている余裕も無い、一刻も早く登記を済ませ、早く売り上げを上げていかなければ、そういう焦りと迷いながら浮かんだ案が「上海六藏貿易有限公司」だった。中国では八とか六は縁起のいい数字と言われる、漢字の本場中国に登記する会社なので、活字の意味も考慮して、「六藏」と命名。
2005年6月上海市外高橋保税区に会社を登記、いよいよ開業だ。
(外資100%の販売会社の登記は、この頃は保税区等に限定されていた時代だった。当社が登記を行った時は法改正直後くらいの頃で、国内企業と同じように普通に市内各地への外資登記も出来るような法体系になってはいたようだが、まだ事例が少なく手続き完了に時間がかかる恐れがあるというアドバイスもあって、会社の登記住所を外高橋保税区内にした)
※ 写真をクリックすると、拡大写真を見ることができます。
※ 写真をクリックすると、拡大写真を見ることができます。
※ 写真をクリックすると、拡大写真を見ることができます。
2005年に上海六藏貿易を開業して15年目の2020年、念願の洗浄実験センターを開業した。洗浄機メーカーの株式会社クリンビー様、同社上海現法の富利美(上海)工業清洗設備有限公司様の御協力も頂いて、上海六藏貿易として自前の洗浄実験設備を実験センターに設置することができた。
株式会社武蔵テクノケミカル製及び大連武藏新材料有限公司製のスカイクリーン洗浄剤と、洗浄機を組み合わせた洗浄実験や条件だし、そしてショールームとしてお客様には、御提案の洗浄機に近い実機(洗浄機)と洗浄剤を「来て・見て・触れて」頂けるショールーム兼テストルームにしていきたい。
※ 写真をクリックすると、拡大写真を見ることができます。
FNAマガジン 2021年2月新春号の表紙と巻頭特集に載せて頂いた。これまで工業系新聞や上海にある日本人向け雑誌等メディアへの取材は何回か経験したが、雑誌の表紙はこれが初体験だ。コロナ禍ならでは、こんな時なので直前までマスク着用。プロのカメラマンに、今回お披露目の新しい洗浄実験センターに入って頂いての撮影、いろんなポーズを何枚も何枚も撮ってますが、どのショットが採用されるのでしょう? 一番左の写真「瓶を持ったリポDのコマーシャルのようなパターン」に決定し、雑誌は無事刊行された。
※ 写真をクリックすると、拡大写真を見ることができます。
| HOME | サービス | 商品ラインナップ | 洗浄関連・お役立ち頁 | 上海六藏MUSASHI |
武蔵テクノサポート株式会社
Musashi Techno Support Co., Ltd.
TEL : 0268-26-8010
E-mail: info@musashi-sh.com